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新規性/利用関係/選択発明

裁判年月日 昭和38年10月31日 裁判所名 東京高裁 

事件番号 昭34(行ナ)13号

「温血動物に対し毒性の少ない殺虫剤」事件

事件の種類 特許願拒絶査定に対する抗告審判の審決取消請求

 

主  文

 昭和三十一年抗告審判第一、五四五号事件について、特許庁が昭和三十三年十月三十一日にした審決を取り消す。
 訴訟費用は、被告の負担とする。

 

 

   事  実

第一 請求の趣旨
 原告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求めると申し立てた。
第二 請求の原因
 原告代理人は、請求の原因として、次のように述べた。
 一、原告は千九百五十三年四月二十一日訴外ゲルハルト・シユラデルから同人の発明にかゝる「0―0―ヂメチル―0―4―ニトロ―3―クロルフエニル―チオフオスフエートの製法」につき、特許を受ける権利を譲り受け、千九百五十二年(昭和二十七年)五月二日ドイツ連邦共和国になした出願に基く優先権を主張して、昭和二十八年四月三十日特許を出願したが(昭和二十八年特許願第七、七一七号事件)、昭和三十一年一月十三日拒絶査定を受けたので、同年七月二十三日(拒絶査定に対する不服申立期間は職権で延長されていた。)これに対し抗告審判を請求したが(昭和三十一年抗告審判第一、五四五号事件)、特許庁は昭和三十三年十月三十一日原告の抗告審判の請求は成り立たない旨の審決をなし、その謄本は同年十一月十三日原告代理人に送達され、これに対する訴請求の期間を職権により昭和三十四年四月十三日まで延長された。
 二、原告の出願にかかる発明の要旨は、「0―0―ヂメチル―0―4―ニトロ―3―クロルフエニル―チオフオスフエートを含有せしめたことを特徴とする温血動物に対し毒性の極めて少ない殺虫剤」である。
 審決は、昭和二十六年特許出願公告第六、一七〇号公報(以下引用例という。)を引用し、「右引用例には、
 『一般式
 〈式 省略〉
 (式中Zは硫黄又は酸素、R1及びR2はアルキル基、アルアルキル基又はアサル基、Yは水素又はニトロ基以外の反応に対して不活性な他の置換基、mは3より大きくない整数を示す。)を有する殺虫剤として有用な有機燐酸エステル類』が記載されている。そしてYで示される置換基は、その定義が不明瞭であるが、その詳細な説明について調査すると、Yが塩素を含むことは明らかである。抗告審判請求人(原告)は、引例には本願発明の殺虫剤の主成分である4―ニトロ―3―クロルフエニル化合物は記載されておらず、しかもこの化合物は温血動物に対し毒性が極めて少い点で利用価値の高いものであると述べているが、引用公報の実施例には、4―ニトロ―2―クロルフエニル化合物が明記され、また特許請求範囲の項その他に示される一般式によれば、置換基Yはベンゼン核の任意の位置にあつてよいことになつているから、4―ニトロ―3―クロールフエニル化合物も引例に既に示されているものというべきである。この見地によつて判断すれば、本件発明における4―ニトロ―3―クロルフエニル化合物を殺虫剤として使用することは、引用例によつて当業者が容易になし得ることであり、その着想において何等新規とみられる点がない。」としている。
 三、しかしながら審決は、次の理由によつて違法で、取り消されるべきものである。
  (一) 引用例は「有機燐酸エステルの製法」に関するので、極めて多数の化合物を包含する。たとえ引用例の「発明の詳細なる説明」中に、「殺虫剤等として有用」なる記載があつたにしても、引用例記載の方法による生成物が、すべて有用な殺虫剤であるか否かは、何等の保証もない。これは第一に有機燐酸エステル類において、極めて構造の類似した化合物でも、有効なのと無効なのが存在することは、周知な事実であるからであり、(毒性に関しても同様である。)第二に引用例中に生成物の有効性(また実用に適する程度に達しているか否や等)の具体的数字的記載が全く欠けているからである。引用明細書の文字面にとらわれて、引例方法の生成物がすべて「有用」であるとするのは適切を欠いている。審決は「有用」という表現を、実際に障害を伴わずして使用でき相当の効果を奏する意味において使用しているものと思われる。そうでなければ、効果はあっても実際には障害が多くて使用し得ないか又は障害がなくても殺虫効果を挙げることができないかの、いずれかであるからである。このような性質、条件は、使用目的によつて定まるべきであるが、相当の試験研究を経ないでは決定できない。このようなことは、引用例からの示唆が仮りにあつたとしても、机上の考案着想により推知できるものではない。例えば、毒ガスを殺虫剤として使用する着想(或種のガスは、特殊の目的に使用されている。)は簡単であろうが、耕作地や野外において広く使用されることはない。人間及び有用鳥獣に極めて危険であるからである。殺虫性が強大であつても、同時に温血動物に対する危険性も大であるならば、その化合物を使用することがいかに経済的であつても、実際には応用できないことになる。従つて殺虫剤その他の農薬において温血動物に対する毒性の低い、又は無毒のものを発見することは、工業における極めて重要な要請であり、技術的課題であることはいうまでもない。この点を無視した審決は違法であつて、この際本件出願記載の有効化合物自体が公知ないし公知に準ずるものとしても、右の点が発明の要旨を構成する上に何等の妨げとなるものでない。
  (二) 審決の理由中に「その着想において何等の新規とみなされる点がない。」とされたことについて、原告が提出した訂正明細書には従来公知の類似化合物と比較した技術的データを記載している。特に引用例中具体的に記載された4―ニトロ―2―クロル化合物に比して効力が少くも同一で、安全性は五倍も大となつていることを記載している。(引用例のこの化合物は市販であるから、引用例の発明者ないし当業者が、本件出願の化合物の特殊性、優秀性を認識し得なかつたことの傍証となるであらう。)特許法の立法趣旨は、技術の公開を代償として発明を保護奨励することに存する。発明は人類の健全な欲望を満たすものでなくてはならず、これは発明の作用効果の危険性の少ないことないし安全性を条件の一つとしている。(各種の安全装置の発明特許がこれを立証している。)従つて安全性における新規性と進歩性とを度外視した審決は、特許法の立法趣旨に全く背くものであり、この点からも違法といわなければならない。各種農薬の中毒について、時々報道されているが、この事実に対して審決は無感覚であり、人命の尊重を忘れている。単に殺虫効果の有無やその強大なことを以つて、新規性、進歩性の審査基準とするならば、このような基準は人間性に反し、極めて遺憾なことであつて、速やかに改定されなければならない。
 四、被告の主張二の(一)、(二)に対しては、次のように述べる。
  (一) 被告は引用例に公表された化合物は、二種類の型に還元されるように述べるが、実際には塩素原子一個とニトロ基二個を含有する該当化合物も存在するから、右の主張は誤りである。
  (二) また被告は「引用公報は殺虫剤として有用な燐酸エステルの製造方法を公表するものである。」と主張するが、引用公報記載の燐酸エステルは、すべて殺虫剤として有用ではなく、該明細書の冒頭に記載されたように、「殺虫剤、殺菌剤等として有用」であり、また本文末尾に記載されたように、「殺虫作用、殺齧歯類作用及び殺菌作用を包含する一般的有害生物抑制作用を有するのであるが、いずれの化合物が殺虫剤として実際上有用であり、いずれの化合物がその他の剤として実際上有用であるかは少しも具体的に公表されていない。周知のように農薬の部門では、殺虫剤、殺菌剤、殺かび剤、殺鼠剤は、それぞれ相異なる化合物の部類に属しているから、引用例の記載により、該化合物が一義的に実際上有用な殺虫剤又はある他種の剤に属すると断定することは不可能である。事実細菌、かびに対して殺滅効果のない殺虫剤(たとえばDDT)も多数知れており、反対に昆虫に対して全然不活性な細菌及びかびの殺滅剤も存在する。また引用公報に記載された有機燐酸エステルは、バクテリヤ及びかびに対する殺菌剤並びに殺鼠剤としては現在使用されていない。実際に応用される各種類の農薬にはそれぞれ異なつた複雑な適性基準が存し、例えば殺虫剤では、安定性、蒸気圧、溶解度などの物理的、化学的性質、虫に対する毒性と人体家畜などに対する毒性化などの生物学的性質によつてきめられる。殺虫剤の化学的構造と毒性との関係、その作用機構については有力な異説が対立し、その有用性は、広汎かつ長期の実験研究によつて初めて確立される。有機燐殺虫剤の作用は浸透作用と神経に関係する生体酵素に対する作用から成るのであることは、ほぼ定説のようであるが、しかも有機燐酸エステルで、重要な害虫に対し実際上全然無効のものもあり、細部の理論は確立していない。なお前記酵素も昆虫の種類やその体内部位によつて活性が異なり、また人体の酵素も極めて異なる活性を示すことが知られている。
 このように引用公報の出願当時に、化合物の用途として記載されたことは、十分な検索実証を経なかつたもので、重要な点で不確定であつた。すなわちこの用途は若干の生成化合物について得られた結果を不当に一般化したものである。
  (三) 被告は「原告は単に該化合物を殺虫剤とするというだけの思想を発明として特許を請求している。」と主張するが、まずこの「用途」とか殺虫剤とかの概念は、問題を殺虫の本質的な分野に限るとしても、あまりに早急な概括法であり、単純化である。いかにも戦前には次に述べるような技術的課題はあまり強く感じられなかつたことは事実であらう。しかしながら戦後の緊迫した食糧等の増産の課題に応じ、強毒性の農薬が市場に現れた(その代表的なものが、引用例記載のメチール及びエチルパラチオンである。)。しかしこれらは緊急事態に素早く応じたものであつたため、非常に強い毒性を回避することができず、多数の中毒者、死者を生じている。この公害は社会問題となり、「低毒性農薬の出現」は、新たな課題として規定されている。このような世界的にも極めて重要な課題に対し、今まで満足すべき解決が与えられなかつたことは、それが極めて困難な実験捜索を必要とするかを証明して余りあるものである。事実引用例の特許権者アメリカン・サイアナマイド・コンパニーの如き巨大会社ですら本件発明の化合物を発見していないことからも明かである。このように農薬、殺虫剤の分野では有効性と安全性とは必ず充足されるべき夫々の独立の課題である。従つて有効性においてさ程劣ることなく、安全性の極めて高度であることは発明における新規性を保証するものである。パラチオン類は厚生省の規準からすれば「毒物」であり「第一級の危険薬剤」であるが、本件発明の化合物は「劇物」にすら相当しない。
 一般的にいえば、農薬における低毒性の課題は、選択作用の探索という広い課題の一部をなしている。例えばあらゆる昆虫を防滅する剤から出発して、一定種類の有毒な昆虫を殺除する問題などである。このような場合には、合成化学上同一又は近縁部類の構造の化合物において、その置換分の種類の変化、位置の変化(異性体)の探索が課題となる。
 この課題の解決は極度に重要であるとともに、先に述べたように技術的に極めて困難であつたし、現在でも極めて困難である。
 原告の発見した化合物は国連の世界保健機構(ワールド・ヘルスオーガニゼイシヨン)の推称するところなつたが、この機構で農薬を推称したのは、本件化合物が最初であり、目下のところ唯一である。このように本件発明が単に附随的性質というような第二義的以下のものではなく、社会的、技術的に高度な独立の基準課題の満足に近い解決であることは明かである。発明の新規性は技術的な各課題ごとに審査評定されるべきものと信ずる。
第三 被告の答弁
 被告指定代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、原告主張の請求原因に対し、次のように述べた。
 一、原告主張の請求原因一及び二の事実は、これを認める。
 二、同三の主張は、これを否認する。
  (一) 原告は引用例に示される有機燐酸エステルは極めて多数の化合物を包含し、そのすべてが有用殺虫剤であるかどうかは判らないと主張する。しかし引用例に示される有機燐酸エステルは、
 一般式
 〈式 省略〉
 で示され、いかにも多種類の化合物を含むように見えるが、実際はそのうち本件で問題となつているチオ燐酸エステルはZが硫黄原子、mは1で、ニトロ基がパラ位に存在し、Yが塩素原子である場合の化合物で、その式は
 〈式 省略〉
 (Rはアルキル基)
 として表わすことができる。この型の化合物については、塩素原子の結合する位置は、オルソ型とメタ型の二種類しかあり得ない。従つて前記の式は、結局二種の化合物を示すものである。
 この二種の化合物は、いずれも引用公報に示される一般式に包含され、具体的には公報中実施例の十九ロヂ―n―ブチル―2―クロロ―4―ニトロ―フエニル―チオノフオスフエートすなわちオルソ型化合物の製造が示されている。このように一般式ではオルソ型とメタ型との両者を包含し、その具体例では、その一方のオルソ型化合物についての説明がなされているのであるから、残る他方のメタ型化合物例えば本件発明で主剤とする0―0―ヂメチル―0―4―ニトロ―3―クロルフエニル―チオフオスフエートは、該公報の記載事項から当業者が直ちに推測し得る化合物であるとみなされることは当然であらう。
 そして引用公報は殺虫剤として有用な燐酸エステルの製造法を公表するものであるから、前記のメタ型化合物も殺虫剤としての使用目的を有するものと当業者ならば当然考える筈である。しかるに原告は殺虫剤の使用法には何も特殊性がなくて、単に該化合物を殺虫剤とするというだけの思想を発明として特許を請求しているのであつて、これを特許の対象として主張する以上は、二種の薬品を使用した際、いずれの化合物が利用価値がより大であるかは別として、審決が該化合物を殺虫剤として使用することは当業者が容易になし得ると判断したことは、公衆の立場をも考慮した極めて常識的でかつ公平な考え方といわなければならない。
 要するに原告が特許請求する思想は、引用例によつてすでに公表され、当業者に自明のことであるといわざるを得ないものである。
  (二) 次に原告は殺虫剤の有効性及び安全性は発明の構成要件であるのに、これを無視した審決は違法であると主張する。しかしもし引用例が単にある種の化合物の製造法だけを公表し、その用途について何も示さず示唆するところもないならば、それら化合物の中のあるものについて、特殊の予想し難い性質を発見した者は、「○○剤」「○○用組成物」または「○○に使用する方法」のような形式で、組成物又は用途のカテゴリーに属する発明について特許を受け得るであらう。引用例に用途が記載されてあつても、それが後に発見された用途と全然別種の場合もこれに準ずる見方が成立するであらう。しかるに本件の場合は、前述のように殺虫剤として既に公表されたとみなし得る化合物を、殺虫剤とすることについて特許を請求するだけであつて、この発明には旧特許法(大正十年法律第九十六号)第四条第二号の規定による新規性を与えるに足りる構成要素は何も包含されていない。
 原告は本件殺虫剤の毒性の少ないことを強調しているが、それは本件発明を実施するための要件ではなく、殺虫剤として実施した場合に附随して得られる効果に過ぎない。附随的でも優秀な効果のあることは、製品の利用価値を高め、発明の高度性を立証するに役立つことがあるが、それは発明の新規性を確立するための要素ではない。
 原告の所論は、審決が発明の新規性を否定したのを、発明自体の否定と誤解したところに基因する。旧特許法第四条第二号による新規性の審査に際しては、出願のものが、普通程度の専門家によつて既知刊行物から容易に実現され得るかどうかを判断するのであつて、その判断の一助として製品の性質、使用成績を参照するに過ぎない。使用できることが公表されている、換言すれば使用についての新規性が全く無い用途発明では、使用結果についての予想外の附随的効果例えば毒性の減少があつたとしても、それは既知の物の単なる性質の発見に止まり、それだけで使用すること自体を新規なりとするには足りない。
 これを要するに附随的性質の発見は、新規性の判断に際して重視してはならないのであつて、引例に殺虫剤であることが示されているのに対し、特許出願がそれと全く別種の用途に関するならば原告の主張も肯定できるが、既知のそれと全く同じ目的、すなわち殺虫剤に使用することについての独占権を要求することは、既に公表され公衆の所有となつているものを奪わんとするに等しく、独占の代償として公衆に飛躍的な新知識を提供することにはならないので、これを特許することは立法の趣旨に反する。
 三、原告の三の主張も否認する。
  (一) 原告は引用例には多くの化合物が含まれ、そのうちのいずれが実際上有用か公表されていないと主張するが、発明することとそれを工業的に実施することとは多くの場合別問題であつて、特許明細書には、発明を実施する際の細部に亘る注意事項の如きは必ずしも記載する必要がない。ことに先願主義を採るわが国の特許制度のもとにおいては、出願の際綿密な明細書を作成する余裕がないのが常であり、運用上もそれでことが足りている。
 発明については、通常多数の実施の態様があり得る。明細書にそのすべての実施例を示すことは実際上不可能であり、不必要でもあるから、適宜の数例を掲げておくのが通例となつている。従つて最優秀の実施例(時と見る人によつても変る。)が記載されていないからといつて、その部分が請求範囲に含まれないというわけのものではない。換言すればそのような記載されていない実施例も、当業者が明細書の記載から容易に類推して実施できるものと特許関係者間ではみなされている。本件出願の発明はまさにこれに該当するもので、本発明の化合物は引用公報の明細書中特許請求の範囲その他に記載される化合物に含まれていることは明らかで、唯その名称が例示されていないだけのことである。
  (二) 原告は本件出願の殺虫剤が殊に実用価値の高いことを繰返して述べているが、その物質自体は既存の特許公報によつて公表されているものとみなされるので、その用途が殺虫剤であることも当業者にとつては自明である。ただしこの引用例のうちに含まれる多くの殺虫剤のうち、実用上は何が適当であるかは、原告の述べるように種々な観点から比較検討した後、場合に応じて選択されるのが当然である。一般にそのような検討なしに特許発明を工業化することは極めて単純な場合を除いては無いといつて過言でない。
 本件発明は特定の化合物を殺虫剤とすることにあるのであつて、毒性が少いことは殺虫のためこれを使用したとき同時に附随する効果であり、毒性が少いことだけを殺虫と切離して利用するわけにはゆかない。これが毒性を弱めるため他の新しい補助剤を配合するとか、補助剤と交互に散布するとかのように、使用手段に新工夫がされたのならば、殺虫主剤については、先願特許(引例)の権利使用ではあつても、後願の特許が成立する可能性がある。しかし本件出願の発明には、このような権利を得る余地は全くない。本発明において毒性の少ないことは、発明構成の疎明の一端とはなり得ても、新規な発明の構成要件としては無価値なものである。
  (三) なお附言すると、原告は最初に化合物の製造法を対象物として特許を出願し、先願特許公報の引用する拒絶査定を受けてから訂正明細書を提出して、対象物を殺虫剤に変更したものである。方法を剤に訂正することは、厳密にいえば発明要旨の変更と考えられる難しい問題であるが、それは一応許容されるものとして議論を進めると、先願特許も同様の製造法から殺虫剤に変更できた筈である。従つて本件出願の発明を特許するときは、実質上二重特許となるおそれがある。換言すれば両者は発明思想として区別できないものと考えられる。
 先願に示された物が、その用途の範囲内でいかに実用価値が高いことを見出しても、特許法上の新規な発明とはなり得ない。それは先願特許の権利者もしくはその実施者が実施に当り検討すべき問題であつて、その間先に述べたような利用発明ができれば別であるが、本件出願発明のような研究成果は、先の発明自体の一例にすぎず、別個に特許権を与えられるべき性格のものではない。もしこのような例示されていないものは、先願の範囲に含まれず、当業者が類推できないとして、後願者に特許を与えるような解釈運用をしたならば、特許制度の混乱を来し、一般の特許関係者は特許庁の審査に全く信頼をおけなくなるであらう。
第四 証拠〈省略〉

 

 

   理  由

 一、原告主張の請求原因一及び二の事実は、当事者間に争いがない。
 二、右当事者間に争いのない事実とその成立に争いのない甲第一号証(特許願)及び甲第三号証の一、二、三(訂正書)の記載を総合すると、原告の特許出願にかかる本件発明の要旨は、「0―0―ヂメチル―0―4―ニトロ―3―クロルフエニル―チオフオスフエート
 〈式 省略〉
 を含有せしめたことを特徴とする温血動物に対し毒性の極めて少くない殺虫剤」に存し、その目的ないしは営む作用効果の要領は、「燐酸及びチオ燐酸の中性エステルは従来より多数知られ、近来に至り0―0―ヂアルキル―0―アリルフオスフエートもしくはチオフオスフエートは殺虫剤として特に重要性を加えるに至つたが、この場合4―ニトロフエニル化合物が効力があることが判明している。しかしこの4―ニトロフエニル化合物は、哺乳動物に対する毒性が強く、効果が少ないので、実用上重要な意義をもつに至らなかつた。本件発明にかかる化合物は、他のクロール―4―ニトロフエニル化合物に勝るとも劣らない強い殺虫作用を有するばかりでなく、温血動物に対する毒作用が著しく僅少であり、市販の0―0―ヂエチル―もしくは0―0―ヂメチル―0―4―ニトロフエニル―チオフオスフエートと比較して、少くとも同一の殺虫(実験は、あぶら虫に対する作用にて行われた。)作用を有し、他面その毒性(実験は、ラツテに対する経口毒性体重キロ当りの致死量を比較してなされた。)は、約五〇―七〇倍、2―クロル化合物に比し、約五倍僅少である。」点に存することが認められる。
 三、一方前記当事者間に争いのない事実と、その成立に争いのない乙第一号証とによれば、審決が引用した昭和二十六年特許出願公告第六、一七〇号公報は、本件出願の主張する優先日以前である昭和二十六年十月十五日特許出願公告がなされた「有機燐酸エステルの製法にかかるもので、これには
 一般式
 〈式 省略〉
 (式中Zは硫黄又は酸素R1及びR2はアルキル、アルアルキル又はアリル基であつて、両者は同一又は別の基、mは3より大きくない整数、Yは水素或はNo2基以外の反応に対して不活性な他の置換基を示す。)
 を有する有機燐酸エステルの製法」が記載され、十九の実施例によりその発明を詳しく示した上、「本発明は、前記の物質と同様に、フエニル基中にニトロ基の外に更に例えば水素、ハロゲン、アルキル、アルコキシ、アリル、アリルオキシ、アミノ、アルキルアミノ、ヂアルキルアミノ、アシル、カルボアルキリオキシ、カルボアリルオキシ等の他の基又は元素を有する有機燐酸エステルの製造を予期せしめる。」と記載し、最後に、「本発明の方法により得られる化合物は、殺虫作用、殺齧歯類作用及び殺菌作用を包含する一般的有害生物抑制作用を有する。」旨が記載されていることが認められる。
 四、よつて右認定するところにより、本件発明にかかる殺虫剤と、引用例に記載された化合物とを比較するに、引用例は一般式によつて示され、これに該当する化合物は、理論上は殆んど無数といえる。しかしながらその成立に争いのない甲第六号証によれば、審決は「引用例における置換基Yに塩素を含むことは該明細書中『発明の詳細なる説明』の項により明白であり、実施例には4―ニトロ―2クロルフエニル化合物が示され、また一般式における置換基Yはベンゼン核の任意の位置にあつてよいこととなつているから、原告の本件発明の化合物である4―ニトロ―3―クロルフエニルの化合物は右引用例中に示されている。」としており、また被告代理人は、これを受けて本件で問題となつているチオ燐酸エステルは、引用例における一般式について、Zが硫黄原子、mは1で、ニトロ基がパラ位に存在し、Yが塩素原子である化合物であるが、その式は
 〈式 省略〉
 で表わすことができ、この型の化合物については、塩素原子の結合する位置は、オルソ型とメタ型の二種類しかあり得ない、しかも右特許発明の実施例第十九の項に、ヂ―n―ブチル―2―クロロ―4―ニトロフエニル―チオノフオスフエートすなわちオルソ型の化合物の製造が示されている。そしてすでにオルソ型の化合物についての説明がなされているから、残る他のメタ型の化合物は、該公報の記載から当業者が容易に推測されると主張する。
 そこで右第十九実施例に具体的に示された化合物と、本件発明の殺虫剤の構成分である化合物とを比較するに、両者は塩素原子の結合する位置が、被告代理人も認めるように、オルソ位にあるのとメタ位にある点において相違するだけでなく、右実施例に示された有機燐酸エステルは、一般式におけるR1R2がともに、n―ブチル基であるのに対し、本件発明のそれはともにメチル基である点において相違する。このように被告代理人において最も近似すると主張する第十九実施例について、このような差異がみられる外、引用明細書を仔細に検討しても、本件発明における特定の化合物0―0―ヂメチル―0―4―ニトロ―3―クロルフエニル―チオフオスフエートなる化合物は見当らず、引用特許の発明者が具体的に右化合物を発見したものとは認められず、またこれが右引用特許公報によつて公表されているものとも解されない。
 一方右両化合物の有する作用、効果についてみるに、先にも認定したように引用例におけるそれは、「殺虫作用、殺齧歯類作用及び殺菌作用を包含する一般的有害生物抑制作用を有する。」のに対し、本件発明におけるものは、「他のクロール―4―ニトロフエニル化合物に勝るとも劣らない強い殺虫作用を有するばかりでなく、温血動物に対する毒作用が著しく僅少」であり、「市販の0―0―ヂエチル―もしくは0―0―ヂメチル―0―4―ニトロフエニル―チオフオスフエートと比較して毒性は約五〇倍―七〇倍、2―クロル化合物に比し約五倍僅少」である。
 およそ殺虫剤その他の農薬において、殺虫活性の増進が問題となることはいうをまたないが、他面温血動物に対する毒性の低下が極めて重要な要請であることは、あえてその成立に争いのない甲第八号証の記載(昭和三十二年四月二十九日朝日新聞記載厚生、農林両省指導の「有機燐製剤危害防止運動」の記事)をまつまでもなく、近時頻発するパラチオン等有機燐酸製剤を使つた農薬による中毒死の事例に鑑み、当裁判所に顕著なところであつて、殺虫活性をほぼ同一にする殺虫剤について、温血動物に対する毒性の低下の要請への解決は、決して被告代理人の主張するように、単にある化合物を殺虫剤として実施した場合における附随的の効果の発見というべきではなく、それ自体独立した重要な技術的課題を構成するものと解せられ、この重要な課題に対し、引用特許公報に示されたものを含む従来の公知の殺虫剤には到底見られなかつたような、優れた作用効果を有する本件発明の殺虫剤は、たとい引用特許のうちに一般式で示された上位概念のうちに包含される化合物を含有せしめたことを特徴とするものであつても、具体的には、この化合物を記載せず、いわんや殺虫活性がほぼ同一であるのに、他面温血動物に対する毒性は極めて少ないという、前述の重要な課題の解明については全然触れるところがない前記引用特許明細書の記載からは、容易に想到されるものとは解し難く、旧特許法第一条にいう新規な工業的発明を構成するものと解するを相当とする。
 五、被告代理人は、原告の出願にかゝる本件発明を特許するときは、先願である引用特許と実質上二重特許となるおそれがあると主張する。
 しかしながら前記乙第一号証によれば、引用にかかる特許発明は、
 「一般式
 〈式 省略〉
 (式中Zは硫黄又は酸素R1及びR2はアルキル、アルアルキル又はアリル基を示す)を有する化合物を、
 一般式
 〈式 省略〉
 (式中Xは造アルカリ金属、mは3より大きくない整数を示し、Yは水素或はNo2基以外の反応に対して不活性な他の置換基を示す)を有する金属ニトロフエノキシードと反応せしめることを特徴として先に掲げた一般式を有する有機燐酸エステルの製法」であることが認められるのに対し、本件出願の発明は、先に掲げた特定の構造を有する化合物を含有することを特徴とする、特定の効果を有する殺虫剤であつて、発明の範ちゆうを異にするものであるから、これを特許しても二重特許となるおそれがあるものとは解されないばかりでなく、本件出願の発明の殺虫剤が含有する化合物は、前述のように引用特許明細書に一般式で示された上位概念のうちに包含されるものではあるけれども、該明細書のうちには具体的に明記せられず、かつ本件発明の殺虫剤は、該明細書の全然言及しなかつた独立の技術的課題を解決した別個の発明と解すべきものであるから、本件発明が含有する化合物を引用特許発明の製法による場合、両者の間には特許法第七十二条にいう利用関係が成立するとしても、同一発明に対する二重特許のおそれがあるものとは、この点からもいわれない。
 六、以上の理由により、原告の出願にかかる発明は、旧特許法第一条の発明と認めることはできないとした審決は違法であつて、これが取消を求める原告の請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決した。
 (裁判官 原増司 山下朝一 多田貞治)
 

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